先日、しんしんとおしゃべり病理医は「質的研究」の勉強会に参加しました。「質」の対義語は「量」。つまり、質的研究というのは、多量の数値データの解析をもとにした研究と対照的に、個別のインタビューなどをもとにする研究手法のことをいいます。
◆EBM “Evidence Based Medicine”
医学分野においては、特に、客観性の高いデータ、つまりエビデンスをもとにした医療を行う「EBM “Evidence Based Medicine”」が極めて重要であると医学生の時から指導されますし、実際の医学研究においてもたくさんの患者さんを対象にした大規模な研究ほど客観性が高く信頼のおける研究だと評価が高くなります。特に創薬の分野では、それが顕著であり、大規模な臨床研究において、Aという治療とBという治療に分けられた集団でどちらが生存率が高いか、など、集団を比較する研究がベースとなり、それぞれのがんにおける標準治療が決められていくのが現状です。
もちろんこうした客観性の高い数値をもとにした研究によって、多くの新薬の安全性が保障され、どんどん診療の質も上がっているのは確かなのですが、だからといってそれだけでいいのかと言われるとそんなことはありません。
◆みんなのEBMは、私にとってのEBM?
実際の医療現場では、患者さんの病気は、患者さんだけのものです。「この薬は60%の患者さんで効きます」「この治療を受ければ、5%再発を抑えることができます」と説明されても、私がその60%に入るかどうかはドクターにもわからず、かつ5%再発を抑えるという意味も深く考えだしたら謎は深まるばかりです。患者さんにとって、治療のチャンスはつねに一度きりであり、どんなに客観的なデータが積み上げられても、患者さんの病気は、その患者さんにとって極めて主観的で特別な出来事なのです。
病理医の私も、診断する側としてそういったジレンマを抱えることもあります。個々の患者さんのがんは、がん種ごとに「がん取り扱い規約」という規定に則って、診断していきます。患者さんのがんは、それぞれのお顔が異なるのと同じように、似ているようでいてひとりとして同じがんの方はいません。ですが、標準治療がスムーズに行えるように、いくつかの項目に無理矢理、分類をして診断をしていくことになります。また、それこそがEBMに則った病理診断ということになるわけです。
しかし、熟練した病理医は、それ以外の多くの情報を個々の患者さんの診断で感じ取ります。このひと、すぐに再発しそうだな、とか、このひとはすごく大きいがんだけれども意外に大丈夫かも、といった、エビデンスとしては零れ落ちるイメージのような情報をたくさん受け取るわけです。ある意味、客観データというのはそういった言葉や数値になりにくいイメージのようなものをすべて削ぎ落していく乱暴な側面があるのです。
◆“経験の内側”という客観的視点
その客観性の落とし穴を鋭く指摘したのが本書です。著者の村上さんは客観とは異なる視点、<経験の内側に視点を取る思考法>を提案します。私たちは医療を含めた社会を構成するひとりの市民であり、自らの生活の実感から、あるいは近くにいる家族や友人の視点から社会課題を考えることができるのではないかといいます。
「それって個人の感想ですよね」ですましているだけでは、物事の本質を見定めるうえで片手落ちになります。村上さんは、<経験の内側>について、いくつかの理由で「主観ということを意味するのではない」といいます。
ひとつは、他の人の経験について、その人の位置から出発し、ある種、客観的に記述する方法であるということ。もうひとつは、対人関係や社会、歴史のからみ合いの拡がりを描き出す試みである、と説明しています。個人の経験を出発点に社会の問題を捉えていくズームアウト的な手法、ということですね。
あらゆる出来事は、極めて個人的な営みであり、莫大な数的データを扱うマクロ的な視点とともに、今、目の前にいる他者へのミクロな視点を同時に磨いていくことが大切です。情報に対する解像度は、鳥の目ばかりを養っていては育つものではなく、時に虫の目、顕微鏡的な視点も必要です。
これからの時代は、質的研究に回帰するのではないか。客観的データばかりが気になっているあなたにぴったりの一冊です。
投稿者プロフィール
- 趣味は読み書き全般、特技はノートづくりと図解。一応、元バレリーナでおしゃべり(おえかき)病理医。モットーはちゃっかり・ついで・おせっかい。エンジニアの夫、医大生の息子、高校生の娘、超天然の母(じゅんちゃん)、そしてまるちゃん(三歳♂・ビション・フリーゼ)の5人+1匹暮らし。
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