医学に効くほん!
医学に効くほん! COLUMN
2023.11.30
2023.11.30
私とあなたのセカイは違う?それぞれの「環世界」
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組織学実習で隣に座って顕微鏡をのぞいていた同期のMくんが、私に向かって急にこう言いました。

「オレさ、軽度の色盲(注:現在は「色覚異常」と呼ばれています)で、H-E染色がけっこう見にくいんだよね」

◆Mくんと私の見ている世界は違う?

H-E染色は、ヘマトキシリンとエオジンという2種類の色素を活用した二重染色法で、人体の組織構造を観察するうえで、最も一般的な染色法です。近年、病気が遺伝子レベルで解読されるようになっていますが、基本の染色法は約150年の間、変わらずH-E染色が活用されています。

H-E染色では、細胞の核が紫色(ヘマトキシリン)に、それ以外の基質がピンク色(エオジン)に染色されるのですが、Mくんは、この紫色とピンク色の差異がわかりにくく、形態が観察しにくいと言ったのでした。

胃の正常組織(H-E染色)

学生時代の話なので、かれこれ20年以上前の話なのだが、とてもよく覚えています。Mくんの言葉に「え?」と驚きつつ、考え込みました。

「つまり私の観察している顕微鏡の世界とMくんのは違うってことなのか。自分が当たり前に思っている世界は、実は、私だけのものかもしれない」と心細い気持ちにもなりました。

今でもたまにその時のことを思い出しては、今、一緒にディスカッション顕微鏡をのぞいているしんしんが見ている世界と、私のはちょっと違うのかもしれない、と思ったりします。

◆ユクスキュルの「環世界」?

私たちは、自分の身体の中にまさに閉じ込められて、そこからまるで映画を観るように世界を観ています。自分の身体を脱ぐことはできませんから、そのようにしか世界を観ることはできず、他の人の世界の見え方と比較することはかないません。私の見ている青空の青色や、若葉の黄緑色や、細胞のピンク色や紫色が他の人と同じであるかはわからないのです。

生物学者のユクスキュルは、生物が知覚している世界を「環世界(Umwelt)」と名づけ、様々な生物と環境との関係を深く検討しました。私としんしんとが見ている世界はほんのちょっとだけしか違わないかもしれませんが、種を越えると「環世界」は一変するとユクスキュルはいいます。

環世界は、それぞれの動物が行動するうえで意味となるものが対象として浮かび上がる世界です。よって、人間と犬とハエでは全く環世界が異なります。様々に活動する人間は意味を持って接する対象物が多様ですが、犬の対象物は、テーブルにある食べ物や飼い主や寝転べるソファーに限定され、テーブルに無造作に置かれたお金や本や壁にかけられた時計は認識の外になるでしょう。さらに、ハエの環世界は、ほとんど食べ物と電灯で構成されることになります。そのように動物によって、対象物の濃淡(ユクスキュルは「トーン」と呼んでいました)が異なるため、同じ場所で過ごしていても全く異なる「環世界」を生きていることになるのです。

◆異なる世界を思いやる

生物から見た世界』の訳者、日高敏隆さんが書いたあとがきには、こう書いてあります。

人々が「良い環境」を築こうと願っている現在、このことはきわめて重要である。「環境」はある主体のまわりに単に存在しているもの(Umgebung)であるが、「環世界」はそれとは異なって、その主体が意味を与えて構築した世界(Umwelt)なのだからである。
──『生物から見た世界』あとがきp.165

最近、環境問題に限らず、貧困やLGBTQ+をはじめとした差別などの社会問題を考察するにあたって、再度、このユクスキュルの「環世界」が参照される機会が増えています。様々な疾患に悩む患者さんに接する医療従事者も、より良い診療を提供するうえで、「環世界」という言葉を知っておいてほしい。異なる世界を想像する思いやりの原点が、「環世界」にあると思います。

本書は、古典に分類されると思いますが、比較的薄い本で、生物学者の日高敏隆さんが訳され、大変に読みやすいです。ぜひ手に取ってみてくださいね!

追伸:
ちなみにMくんは立派な小児外科医となって、現在は、海外でばりばり働いています。
私の誇らしい友人のひとりです。

投稿者プロフィール

小倉 加奈子
小倉 加奈子
趣味は読み書き全般、特技はノートづくりと図解。一応、元バレリーナでおしゃべり(おえかき)病理医。モットーはちゃっかり・ついで・おせっかい。エンジニアの夫、医大生の息子、高校生の娘、超天然の母(じゅんちゃん)、そしてまるちゃん(三歳♂・ビション・フリーゼ)の5人+1匹暮らし。